2011/07/07

「いつでもここに立ち戻ればいい」という魔法の杖。

[time & place]  夏至の日、ソファにて
[book]  梨木香歩さんのエッセイ


少し前のこと。夏至の日に、体調を崩した。
原因は虫刺され。毎年この時期になると悩まされる、畑仕事の最中などにやられるブヨの仕業。今年もさっそく右目の瞼を狙われ、みるみるうちに「お岩さん顔」に。腫れは顔中に広がって熱を持ち、吐き気や歯痛まで連れて来る。毎年のことなので驚きはしないけれど、仕事や家事もままならず、ただただ冷やし、安静にしながら腫れが治まるのを待つのは、厄介だし甚だ鬱陶しい。
おまけに夏至のこの日は、前もって休みをとって、連れと湖へ行く予定だった。その愉しみもおじゃんとなり、梅雨の晴れ間の嘘のような快晴の、一年で一番長い日中を横になって過ごさなければいけないなんて!
やけっぱちな気分になって、ソファに寝転がり、眼を閉じる。
外からは、今が盛りと全身全霊で鳴きつづける、ハルゼミの大合唱。網戸越しに入り込んで来る、湿気を含んだ生温い風。そんな音と匂い、自分の発する熱で、小学生の頃、夏風邪で学校を休んだ日の、あの世界に置いてけぼりをくったような所在なさを思い出す。
うたた寝にも飽き、よろよろと起き上がって本棚の前へ。自然に手が伸びたのは、梨木香歩さんのエッセイ、「ぐるりのこと」など。
行けなかった湖のこと。むせかえるような湿度。幼かったころのぼんわりとした甘い記憶。そんなものが、梨木さんの作品を連想させたのかもしれない。
いずれももう何度も読み返した本だけれど、読み始めればいつも、硬質できっぱりとした語り口のなかにも、ときどき脆さや優しさ、迷いが滲むような、まっすぐな言葉の連なりへと、瞬時に魅き込まれてしまう。

梨木香歩さんの紡ぐ言葉や物語は、私にとってのバイブルのようなもの。
迷ったときや自信をなくしかけたとき、自分の居場所がわからなくなりそうなとき、決まって助けを求める。
本当の意味でのバイブル(聖書)と違うのは、そこに明快な答えやああしましょうこうすべきという導きはないこと。書き手自身も、迷い、怖れ、立ちすくんだりしながら、それでも過去から未来まで、「粘菌」のようなミクロの世界から渡り鳥が羽ばたく大空までを広く見晴らし、文化や、文明といわれるものや、人間そのものの可能性を信じて、言葉という形あるもので私たちに語りかけてくれる。その、ひたむきで、まっとうな、書き手(「生き手」と呼んでもいいかもしれない)としての姿勢に、心を打たれる。


物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を。
(「ぐるりのこと」/物語を)



3月11日のあと、自分では背負いきれない情報の渦に巻き込まれ、活字を追う気力すら失くしかけていたとき。その頃ようやく開くことができたのも、梨木さんの近著「不思議な羅針盤」だった。
震災以前に書かれた文章のなかに、この災害を契機にあちらこちらで噴出してきた「対立」や「諍い」、「糾弾」、責任のなすりつけあいや人命の軽視、「諦め」など、今の私たちを取り巻く先の見えない混沌とした世界を予言したようないくつかのフレーズに思いがけず遭遇し、また何度かキュッと胸が締め付けられる思いがしたのだ。


世の中のスケールがどんどん大きくなることに、最近なんだか疲れてしまった。グローバルに世界をまたに掛けて忙しく仕事をしている人たちの、大きくはあっても粗雑なスケールにも。(中略)このマクロにもミクロにもどんどん膨張している世界を、客観的に分かろうとすることは、どこか決定的に不毛だ。世界で起こっていることに関心をもつことは大切だけれど、そこに等身大の傷みを共有するための想像力を涸らさないために、私たちは私たちの「スケールをもっと小さく」する必要があるのではないだろうか。
(「不思議な羅針盤」/「スケール」を小さくする)


非常時の名のもとに一律に同じ価値観を要求され、その人がその人らしくあることを許されない社会はすでに末期症状を呈しており、いずれ崩壊の日も間近という事実を、私たちは歴史で学んでいるはずなのに、最近なぜかまたそういうことが繰り返されそうな、いやな空気が漂っている気がする。
人もまた、群れの中で生きる動物なのだから、ある程度の倫理や道徳は必要だが、それは同時にその人自身の魂を生かすものであって欲しいと思う。できるならより風通しの良い、おおらかな群れをつくるための努力をしたい。個性的であることを、柔らかく受け容れられるゆるやかな絆で結ばれた群れを。傷ついたものがいればただそっとしておいてやり、異端であるものにも何となく居場所が与えられ生きていけるような群れを。(後略)
(「不思議な羅針盤」/ゆるやかにつながる)


自分自身の胸にもたしかに刺さっている小さなトゲを感じながら、ため息をつきつつ、こうした言葉ひとつひとつをなぞっていく。やがて、巻末近く、とあるリハビリテーションのメソッドを取材した折りの人間の「回復機能」に寄せた次のような言葉に、なぜだか今の状況を重ねてしまったりもした。

生物は、我が身に降りかかった危機的な状況を、どうにも避けられないものとしながら同時に(誤解を恐れずに言えば)「チャンス」のようにも捉えて、もっと創造的に、また内省的にも、自らを「変えていく」可能性を持っているように感じられ、それは単に「以前と同じ機能を回復する」というだけでは語れない、「変わっていく」過程のように思える。敬虔な思いに満たされる。
(「不思議な羅針盤」/変えていく、変わっていく)


自分勝手な解釈をして、梨木さんにしてみたらはた迷惑なことかもしれない。
それでもやはりそこに、今の私のような、前後左右どちらを向いたらよいのかわからない、笑ったらいいのか、怒ったらいいのか、諦めたらよいのかという自身の感情の持って行き場すら見失いかけている者への、小さな助け舟のようなメッセージを読み取らずにはいられない。
そして同時に、3月11日以降に書かれる梨木さんの言葉が、待ち遠しくてならない。

私はこれからもきっと、つまづいたり、投げ出したり、うずくまったり、逃げ出したりしてみては、そのたびに梨木さんの言葉にすがるようにしながらなんとか立ち上がり、不安だらけの明日という日にまた立ち向かっていこうとするのだろう。
決して軽やかで美しい姿ではないけれど(まさに今日の腫れ上がった顔カタチと同様)、それでも「いつでもそこに立ち戻ればよいのだ」という杖__私にとってはそれが梨木香歩さんの言葉なのだが__を持っているということは、なんと心強く、幸せなことなんだろう、と思っている。