2011/09/03

あの夏の終わりと、ささやかな希望のこと。


[time & place]  夏の終わり、台風の日に
[book]  吉本ばなな『海のふた』(中公文庫)



高原の、短い夏が終わろうとしている。


7月、海の日を過ぎたあたりから、じわじわと避暑客や観光客が押し寄せ始め、いつもは静かな農村が突然「リゾート」と呼ばれる季節がやってくる。
ピークはお盆の前後。それまでひとけのなかったホテルやレストラン・商店にも、煌煌と明りが灯り、駐車場は満車。普段は軽トラックが牛のスピードで走る国道にも、県外ナンバーの高級車やファミリーカーが渋滞をつくる。
毎夏のことながら、この早着替えのような村の変貌ぶりには面食らい、住民としては少々困惑したりもする。
とはいえ、かくいう私が数年前までは、この時期「他所(よそ)」から押し寄せて来ていたほうの立場のひとり。
気持ちがざわついてしまうのは、ふだんすっかり「土地の人」のような顔をして暮らしていても、実はまだまだ根っこを張りきれてはいない自分自身の姿が、夏の喧噪によって暴かれてしまうことへの気恥ずかしさもあるのかもしれない。


吉本ばななの作品に『海のふた』という小説がある。
どちらかといえばこじんまりとした小品で、ばなな作品のなかではあまり知られていないような気もするが、私にとってはいつもこの夏の終わりの時期、繰り返し開いてしまう馴染みの一冊である。
ふるさとの海辺の町に戻り、かき氷屋を始めた主人公のまりと、大切な人の死で心に傷を負った少女はじめが、ふたりで過ごすひと夏の物語。
久しぶりに戻った故郷のさびれた様子に愕然とするまり。シャッターが降りたままの商店街、子どもの頃通った大衆食堂も射的場もホテルのプールもすべて廃墟と化し、町から若者と賑わいが消えたかわりに、お金持ちだけが引き蘢る高級ホテルや老人ホームだけが増えていた。
そんな町の様子に悲しくなったり憤ったりしながら、「自分のできること」としてかき氷屋を開いたまりは、ひょんなことからやってきたはじめに付き合い、町や海をあちこち案内してまわるうち、いつまでも変わらない自然の持つ美しさ厳しさを再発見し、自分の「居場所」を見つめ直していく…。


海と山と、バックグラウンドにあるものは違っても、まりの眼に映ったふるさとの風景の描写のなかに、自分にも重なるものを見つけ、読むたびに胸がきゅっとなる。
私にとっての北軽井沢は、物心つかないうちから訪れていた第二の故郷のような場所。
今も夏場になればこうして一見華やかに賑わいを見せる北軽井沢だが、幼い頃、家族とともに過ごした当時とは明らかに変わってしまった(失われてしまった)ものもある。


まるで夜逃げでもするように車の屋根にパンパンに荷物を積み込んで自宅を出発する夏休み初日。
峠道、カーブをひとつ過ぎるごとに涼しさを増していく、ひんやりとした山の空気。
ひさしぶりに到着した山荘の、うっすらと黴臭い独特の匂いと、よそよそしい雰囲気。
一夜明けて、強い陽射しに照らされた眩しい緑の森が眼に飛び込んできたときの喜びと、長い休みが始まることへの興奮。
花を摘み、虫を追いかけながら歩く散歩道。車で少し離れた山まで向かうハイキング。テラスの七輪バーベキュー。トランプや麻雀に興じて夜更かしした夕べ。
思い出し始めたらきりがないが、あの恵まれた懐かしい日々があってこそ、今この場所での生活があると思うと、両親には感謝してもしきれない。
私の原風景はいつも、あの夏の光に満たされた山荘での情景にある。


その思い出の風景に出て来る、木造の平屋づくりの村で唯一のスーパーや、バスロータリー近くにあった雑貨やさん、一般客も入ることのできたホテルの屋外プール、ボートや釣り遊びをした森のなかの湖などなど、私にとっての村の象徴的な場所は、みな姿を消すか、廃墟となって朽ちかけているか、自由に立ち入ることができなくなってしまった。
(北軽井沢からは離れるが、中軽井沢・千ヶ滝別荘地にあった夏だけ開く某Sデパートの出張店も、子供心にキラキラした避暑地らしい、思い出深い場所なのだが、もう数十年放置されたままで見る影も無い。)
今この村に訪れた人が行く場所といえば、昔からある牧場やテニスコートなどを除けば、ゲームセンターが巨大化したようなホテル付設のテーマパークか、所有者が変わって夏だけ取り繕ったように営業するスーパーか、コンビニくらいなもの。
子供たちにはどんな景色が見えているのか。
大人になってまたここを訪ねてみたいと思ってくれるのだろうか。


8年前、この村に住むことを決めたとき、「さぁこれから!」というワクワクする思いの一方、少しずつ輝きを失っているような村に対して、やはり一抹の寂しさもあった。
よそ者の自分たちに何ができるとは思えないけれど、この村を訪れる人をもっと増やして、「いいところだね」と思ってほしくて、(海辺の松林のかき氷屋のような)小さな週末だけの店を開いた。
それからいくつかの夏を迎えては見送り、今でも基本的な思いは変わっていない。
ただ、この土地に対して実際に何ができたかといえば、大きな声で言えるようなことはまだなにもできていない。
それどころか森の家での暮らしは、いつしかそれが「非日常」から「日常」のものへとなるにつれ、周囲をとりまく自然の美しさ・雄大さへの新鮮な驚きや感動も少しずつ薄れてゆき、とりわけ短い夏は、慌ただしさに追われるようにあっという間に過ぎていく。
そして、文字通り心を亡くすほど忙しい毎日が続くと、自分で自分に課した最低限の約束__お客さんにこの村を好きになってもらうということ__すら忘れかけてしまいそうになることもある。
だから夏の終わりはいつも、そんなノスタルジーと後悔と焦りがごっちゃになったような、ちょっぴり苦い思いを味わうことになる。

そんなふうだから、「海のふた」を読み返しては、店を始めた頃の思いや、この場所での自分の立ち位置(というほどおおげさなものでもないけれど)を再確認したくなるのだ。


これからここがどうなっていくか知らない。私はここの大地をなでるような気持ちで、毎日この足で歩き回っている。小さな愛が刻まれた場所は、やがて花が咲く道になるからだ。


誰かが、たとえひとりでもいいから、この町を大好きだと思い、そしてその愛のこもった足の裏で道をぺたぺた歩いてくれますように。
この町に来た観光客が、言い知れない懐かしさや温かさを感じて、そして「また来よう」とここを大切に思う気持ちを、住んでいる人たちの糧になるような輝きを、置いていってくれるようになりますように。



まりにとって昔と変わらない大きな海がなぐさめとなったように、ここ北軽井沢のシンボルの浅間山も、草津や白根の山並みも、のんびりと牛が草をはむ広大な草原も、鳥や蝶が飛び回る深い雑木林も、人間の手の届かない大自然の部分は、まだまだあの頃と変わらず、静かにここにある。
夏が過ぎて村に静けさが戻る頃、どこからともなく漂い始める木の実の熟す甘い香り。木の葉がひらひら舞い落ちて、林の向こうに山々の輪郭が見えるようになると、やがて訪れる長い長い冬。雪と氷に閉ざされて危うく冬眠しかけそうになる暁にようやくやってくる待望の春。
季節の移り変わりのダイナミックさと、その時々に見せてくれる表情の神秘的なまでの美しさ。
きっとこの場所に何年住もうとも、毎年驚かされるに違いない。


こんな大きな自然の懐で、ひとりの人間がその土地でできることなど限られている。
だからこそ、肩の力を抜いて、身近な人にそっと「遊びにおいでよ」と囁くくらいのボリュームで、この村の良いところ、好きなところを、伝えていければよいのかもしれない。
その地味でささやかな希望のようなものが、いつかどこかで実を結び、種となり、芽を出してくれるような気がするから。
たしかに。
きっと。


私は私の店を作ってゆき、たくさんの人に出会うだろう。そしてたくさんの人を送るだろう。決まった場所にいるということは、そういうことだ。(中略)続けていくということは、全然きれいごとじゃなくて、地味で重苦しくて、退屈で、同じことのくりかえしのようで…..でも、何かが違うのだ。何かがそこにはきっとあるのだ。
そう信じて、私は続けていく。